ヘイトスピーチ(差別的言論)考

2014年9月9日 0 投稿者: 行政書士 真栄里 法務事務所

約3000字(読了≒5分)

ヘイトスピーチとは・・・

“Hate Speech”
直訳すると、
“憎悪表現”となります。
“差別的言論”と呼ばれたりもします。
「○○人を殺せ」
「○○人は出て行け」
などを叫ぶことなどがヘイトスピーチと言われています。

ヘイトスピーチの何が問題なのか?

特定の民族や社会階層に属する人々、特に社会において従属的地位に属している少数者のその従属的地位を言論により固定化しようとすることが問題とされています。

ヘイトスピーチ規制を巡る賛否の現状

ヘイトスピーチの規制を巡っては、

  • 規制賛成派
  • 規制反対派

とで議論は真っ二つです。

Yahoo!でのアンケート結果

規制賛成派と規制反対派に真っ二つです。
下図は、2014年9月8日現在のYahoo!でのアンケートにおける賛否の割合です。
ヘイトスピーチ(アンケート結果)
現時点では、規制賛成派が過半数を占めています。

規制反対派

規制反対派は、

  • 「日本にだけ規制を求めることが理解できない。そもそも発端は中国、韓国の対日ヘイトが原因ではないのか」
  • 「仮に日本に規制を求めるので有れば、その要因を作り上げている中国や韓国も同様に規制を行わないと何の説得力も無い」

などと述べています。

規制賛成派

規制賛成派は、

  • 「『○○人をぶっ殺せ!』など集団になって街で公然とスピーチすることは、明らかに表現の自由から脱している」
  • 「いわゆる『ヘイトスピーチ』とは『表現の自由』として保障するに値しない表現(スピーチ)を指すものだと思います」

などと述べています。

賛否の検討

「表現の自由」って?

規制反対派は、ヘイトスピーチは「表現の自由」から逸脱している、ということを根拠としています。
ここで最初の論点は「表現の自由」とは何か?ということです。
「表現の自由」という文言は憲法21条1項に規定されています。
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」(憲法21条1項)という規定です(太字は筆者が加工しました)。
憲法21条1項にいう「表現の自由」が何かを検討しなければヘイトスピーチが「表現の自由」から逸脱しているか否かは分かりません。

そもそも「表現」とは?

「表現」とは、「内面的・精神的・主体的な思想や感情などを、外面的・客観的な形あるものとして表すこと」「外にあらわれること。外にあらわすこと」などとされています(松村明[編]『大辞林<第三版>』三省堂、2006年)。
早い話が、“内面の思想、意見や感情などを外に表すこと”が「表現」と言えます。
Hate speechであっても内面に持っている差別感情、差別意見を外に表すことですから、国語辞典的には「表現」に含まれることになります。

「表現」=「表現の自由」なのか?

国語辞典的意味で「表現」であってもその「表現」が直ちに「表現の自由」として憲法上保障されるとは限りません。
たとえば、ドイツではナチスに関する「表現」は「表現の自由」として保護されません。
日本でも従来は、性表現や名誉毀損的表現には刑罰が科されていますから「憲法で保障された表現の範囲に属さないと考えられて」(芦部信喜[著]高橋和之[編]『憲法<第五版>』(岩波書店、2011年)182頁)きました。
そうすると、「表現」≠「表現の自由」となります。
問題は、「表現」であるヘイトスピーチが「表現の自由」で保障されるかということになります。

ヘイトスピーチは「表現の自由」で保障されるか?

この議論では、何がヘイトスピーチであるのか?というヘイトスピーチの範囲がとても重要となります。
その範囲をどう決めるかによって、本来憲法上保障されるべき表現まで「表現の自由」の範囲外となってしまうからです。
ヘイトスピーチであるか否かは、ある人の発した言葉の意味内容(表現内容)を見て判断するわけですが、表現内容は歴史的にも恣意的に規制されてきました。
これまでの歴史を考慮すると、本来保障されるべき表現を十分に保障すべくヘイトスピーチであっても「表現の自由」で保障すべきだという考えも可能です。
逆に、ヘイトスピーチは「表現の自由」で保障されないという考えも可能です。
いずれの考えに立つかは、歴史の認識に加えて、
「表現」をする主体、つまり市民をどう捉えるかに関わります。

  • 自律的市民として各市民を捉えるならばその市民の表現については憲法的保障を及ぼして、「表現」の適否については自律的な市民間の判断に任せるべきで、政府が規制をすることは原則として許されない、と考えることになります(【思想の自由市場論】)。
  • 政府による規制がなければ市民は暴走すると考えると、つまり市民を他律的存在と捉えると、ヘイトスピーチは「表現の自由」でそもそも保障すべきではない、という筋になる可能性が高くなります。

なお、憲法学的には、ヘイトスピーチも「表現の自由」で憲法上保障されると考えるのが主流だと言えます。
なぜなら、憲法は自律的個人を前提としているからです。
このような憲法の前提からすると、ヘイトスピーチを憲法的保障から排除することは憲法論的には困難だと思います。

ヘイトスピーチを規制することはできるのか?

それでは、ヘイトスピーチを規制することはできないのでしょうか?

如何に憲法上の保障が及ぶとはいえ、規制されることはあります。
「公共の福祉」(憲法13条後段)という概念がキーワードになります。
ただ、ヘイトスピーチの規制は、表現内容そのものの規制ですから、その規制については極めて厳格に審査しなければなりません。
そうでなければ、【思想の自由市場】の正常な働きを破壊することになりますから。
具体的には、

  • そのヘイトスピーチを認めることで他者の生命身体に危害が及ぶなどの明白な危険があって、
  • そのヘイトスピーチを規制する以外にその危険の発生を防止することができない場合

などです。
ヘイトスピーチ規制に名を借りた政府に都合の悪いデモ行進などを規制させないためにも、つまり【思想の自由市場】を維持するためにもヘイトスピーチの規制は慎重に審査する必要があります。

結び

ヘイトスピーチで苦しむ被害者が多くいることは承知しておりますが、彼らを救うためには何よりもまず【思想の自由市場】が十分に機能しているのか否か?の検証が必要だと思います。
ヘイトスピーチ規制により、憲法上保障される表現活動が不当に規制されるという副作用は、長期的に見るとヘイトスピーチ規制により得られる利益を上回るだろうからです。
ヘイトスピーチに対しては、【対抗言論(more speech)の場】(【思想の自由市場】)を広く保障することが不可欠だと思います。

もっとも、こういう意見に対しては、特定の民族や社会階層に属する人々はヘイトスピーチで心身ともにやられてしまっていて反論なんてすることはできない、という反論があると思います。
しかしそうはいってもやはり言論に対しては言論で対抗する(【対抗言論】)ことが原則です。
自律的個人であるためにはヘイトスピーチへの政府の規制を要請するのではなく、苦しくても言論で対抗することが重要だと思います。
対抗言論】を頑張れば必ず分かってくれる方は出てきます。
そのためにも、【対抗言論】を抑圧しない環境、つまりは【思想の自由市場】をしっかりと保障し、その市場において言葉をもって対抗することを可能にする環境作り、これが不可欠だと思います。
まずは、【思想の自由市場】が正常に機能しているか?
その監視をすることが私たち市民に要求されていることかと思います。