「殺人は何故、悪いことなの?」
2014年12月13日約1400字(読了≒2分)
目次
最近問題となった殺人事件
日本
青酸カリを使用して、結婚と死別を4回繰り返したとされる事件(京都府)
ブラジル
議論の余地なし
これらの殺人が悪いことである、という点に議論の余地はありません。
では、その理由は何でしょうか?
何故、殺人は許されない悪い行為なのでしょうか?
理由は?
1 強い者しか生き残らないから。
→弱肉強食になり、強い者しか生き残らない。いずれ自分も殺される。
2 社会の生産性が落ちて物品の奪い合いが生じ、社会秩序が崩壊するから。
反論
1 自分は強いから生き残る側だ。問題ない。
2 自分は強いから物品の奪い合いに勝つ。社会秩序が崩壊しても自分は生き残るから問題ない。
検証
理由がある以上は、それへの反論が論理的に可能です。
「殺人は悪いことである」
そのことに理由があれば、その理由への反論が上で述べたように可能となります。
そうすると、理由がある禁止規範は、規範の正しさが相対化されることになります。
規範の相対化によっていずれその規範の正統性は崩壊していくことになります。
殺人・強姦・窃盗など、議論の余地がない犯罪だと認識されるのは、その理由が明白だからではない。逆だ。禁止する本当の理由がわからないからだ。「悪いに決まっている」。思考が停止するおかげで規範の正しさが信じられる。
(小坂井敏晶『「神の亡霊」4 普遍的価値と相対主義-神・裁判・禁忌」(UP、2014年12月号)36頁』)
禁止する本当の理由がわからないのに禁止し、それを皆が守るということは、“信仰”ということになりますね。
倫理判断や裁きは合理的行為ではない。信仰だ。
(小坂井・UP2014/12、36頁)
なるほど!
その通りだと思います。
“信仰”であるが故に強大な力となっているのです。
近代は、神を殺し合理主義を打ち立てたはずですが、しかし、未だ根底には“信仰”がある。
つまり、近代も、神の存在を秘密裏に肯定しているということです。
信仰からの脱却
そうはいっても、いつの世にも当然の決まり事に反論する人がいます。
表現の自由の保障もあって、あるテーマについての議論をタブー視することはできません。
そうすると、信仰であるタブーに理由を見いだす人が出てきます。
このことがきっかけで、あるタブーに実は理由がなかったことが白日の下にさらされる日が来ます。
その日が“信仰”から解放される日、ということです。
ということは、
近代に秘密裏に存在する神が、時とともに薄くなって来ている、
というのが近代ということなのではないでしょうか?
ニーチェは、
<神は死んだ>
と言いましたが、実は近代でも神は死んではいなかったわけです。
ただ、合理主義や表現の自由によって、ある規範が“信仰”であったことを白日の下にさらしていくのが「近代」だと考えますと、
“「近代」とは、神を殺していく試みをしている時代”
だということになるのではないでしょうか?
結語
【規範とは、信仰】
【殺人を禁ずる規範に合理的理由はない】
【殺人が悪い、というのは信仰】
付記
【殺人が悪い、というのは信仰】
だというのがここでの結論ですが、だからといって
規範を破っても良いとは決して言っておりませんし、
規範を破っても良いとも全く思っておりません
ので誤解のないようにお願いいたします。