「シャルリ・エブド紙」-風刺画の表現は無制限に保障されるのか?-
2015年1月15日約2500字(読了≒4分)
目次
シャルリ・エブド紙がムハンマドの風刺画再掲載
2015年1月14日、あの事件後初となる特別号の表紙にイスラム教の預言者ムハンマドとみられる男性の風刺画を再掲載しました(Jcastニュース)。
2015年1月7日の襲撃事件から1週間後のことです。
ヨーロッパでは、「風刺」は文化の1つともなっています。
そもそも「風刺」とは?
「風刺」は日本ではあまり馴染みがありません。
「風刺」とは、
他のことにかこつけるなどして、社会や人物のあり方を批判的・嘲笑的に言い表すこと。(『大辞林 第三版』)
とされています。
また、「風刺画」は、
社会や人物を風刺した絵画。誇張をまじえつつ冷笑的に描かれることが多い。(『大辞林 第三版』)
という風に記述されています。
度重なるムハンマドへの挑発的な「風刺」への報復?
1月7日のテロ事件はイスラム過激派の犯行だが、これまでイスラム教の予言者・ムハンマドの挑発的な風刺画などを掲載してきたのは「シャルリ・エブド」のほうだ。
同紙はそのたびにイスラム教徒から反感を買っていたが、それを意に介せず、さらに繰り返していたとされる。犯行は、当初からその報復行為ではないかとみられてもいた。『「風刺画ならば許される」は欧米の「おごり」? 日本のネット、米国の一部でも「シャルリ」に疑問の声』
JE SUIS CHARLIE
「JE SUIS CHARLIE」(=私はシャルリ)は、表現の自由を支持する人たちによって掲げられたスローガンです(Je suis Charlie)。
「風刺」という言論に対して暴力で対抗することへの批判を主眼としています。
襲撃テロの是非
これは、犯罪であることは間違いないです。
ここでは、ムハンマドの挑発的な「風刺画」を掲載することの是非についてどう考えたらよいかを検討したいと思います。
「風刺画」掲載の是非
ここでの基本的な考え方は、「公私二分論」です。
以前、このサイトでもご紹介した考え方です(『異なる宗教間での対話は可能か?-多様な価値観の公平な共存-』)。
一言でいうと、「公」空間に「私」的価値観を直接持ち込まない(持ち込ませない)、ということです。
「公私二分論」は、異なる宗教間での「共存」を可能とする考え方でした。
この「公私二分論」からすると、「公」空間での「私」的価値観の対立は避けるべきです。
ですので、この問題(「風刺画」掲載の是非)は、シャルリ紙の「風刺画」掲載が
- 「公」空間に
- 「私」的価値観を直接持ち込んだのかどうか、
ということにあります。
「公」空間?
「公」とは、
広く世間一般の人にかかわっていること(『大辞林』第三版)
ですから、
「公」空間とは、世間一般、つまり、不特定又は多数者の集まる場(物理的な場に限られません)と理解しておきます。
週刊誌「シャルリ」は不特定多数者に発行されています。不特定多数者の読者との間で1つの言論の場を形成していますから、「風刺画」の掲載は「公」空間での掲載と言えます。
「私」的価値観を直接持ち込んだのか?
問題は、シャルリ紙が「私」的価値観を直接、「公」空間に持ち込んだのかどうかです。
ここをどう評価するかが、シャルリ紙の「風刺画」掲載の是非を左右します。
まずは、どういう内容の「風刺画」であったのでしょうか?
「風刺画」の内容
「すべては許される」とのメッセージの下で、「私はシャルリ」と書かれたプラカードを掲げながら涙を流すイスラム教の預言者・ムハンマドを描いた。(『「風刺画ならば許される」は欧米の「おごり」? 日本のネット、米国の一部でも「シャルリ」に疑問の声』)
「風刺画」のどこが問題なのか?
この「風刺画」で一番問題とされる部分は、ムハンマドの絵を描いた、ということです。
イスラム教では、神だけを崇拝し、他の何物(人間、偶像)も崇拝してはならないことになっています(宗教法人 日本ムスリム協会)。
神ですら偶像化して崇拝してはならない、というのがイスラム教の教義の1つになっています。
予言者・ムハンマドを崇拝することはもちろん教義上禁止されています。
加えて、予言者・ムハンマドを偶像化してもならないと信じる敬虔なイスラム教徒も存在するようです(『「風刺画ならば許される」は欧米の「おごり」? 日本のネット、米国の一部でも「シャルリ」に疑問の声』)。
今回のシャルリの「風刺画」もムハンマドの絵を描いてムハンマドを偶像化したことから、イスラム教の教義を真っ向から否定するものとしてイスラム教徒の反発を買っているのです。
ムハンマドの「風刺画」がイスラム教の教義を否定するものなのかどうか?の問題
(1)シャルリの「風刺画」がイスラム教の教義を否定する内容だということになれば、この「風刺画」はイスラム教は間違っているという価値判断を表明したことになりますから、「公」空間に「私」的価値観(イスラム教は間違っている)を直接持ち込んだものと評価され、「風刺画」掲載は間違っているということになると思います。
(2)逆に、シャルリの「風刺画」が、イスラム教の教義を否定する内容を持つのではなく、あえてイスラム教のタブーに触れて宗教を相対化させることで、「公」空間に宗教を持ち出すことを諌(いさ)める内容なのだ、と評価すれば「風刺画」掲載は、「公」空間を宗教の侵食から守る″盾”であるとして、その掲載の意義を高く評価することになると思います。
最後に
フランスでは、2010年に、公共の場でのブルカ(伝統的にイスラーム世界の都市で用いられた女性のヴェールの一種)着用を全面的に禁止する法案が成立し、2011年から施行されています(ウィキペディア ブルカ 欧州移民とブルカ)。
このことに明らかなように、フランスでは、公共の場での脱宗教性の色合いが強くなっています。
政治と宗教を分離するという政教分離(ライシテ)の考えを徹底しているのです。
その流れの中に、フランスで370万人もの人々が「JE SUIS CHARLIE」を合言葉に「表現の自由」を主張してデモに参加したという事実を位置付けると理解しやすいのではないでしょうか?
ポイントは、
「政教分離」
「公私二分論」
「公での脱宗教性」
にあります。
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