LGBTQ(宜野湾市議会での多様性尊重併記条例否決を巡って)
2020年7月13日目次
理解してもらう努力が足りないのか?
以前、多様性尊重併記条例を宜野湾市議会が否決したことについて書きました(「多様性尊重」併記条例が否決…)。
この件については、LGBTQがどういったものか?や
性的「指向」や
性的「嗜好」
の違いが分かりにくい、もっとわかりやすい表現をすべきではないか?そういったことをしないで相手(多数派)を非難するのは筋が違うのではないか?という意見があります。
少数派の立証責任
いつの時代にも、どの国にも必ず少数者は存在します。
少数派には住みにくい世の中というものが残念ながら存在します。
少数派はどうすべきなのでしょうか?
何をしなくても多数派が少数派の苦難を察知して対策を採ってくれると考えている少数者は存在しないでしょう。
歴史を見てもそうです。
少数派が声を上げ続けたからやっと社会の多数派を変え、法律や制度が制定され、少数派の利益が守られるようになってきたというのがこれまでの歴史です。
歴史は少数派が作ってきたといっても過言ではないでしょう。
ブラウン判決
アメリカで有名な判例に「ブラウン判決」(1954年)があります。
この判決は、黒人の女の子が近くの公立小学校ではなく、離れた公立小学校に通わざるを得なかったことから彼女の父親が教育委員会を相手に訴訟を起こした事件に対してくだされました。
なぜ、彼女は近くの公立小学校に通えなかったのか?
それは、その公立小学校が「白人」のための小学校だったからです。当時のアメリカでは、人種により公立小学校を分離することが許されていました。教育環境が同じであれば「分離すれども平等」だという1896年の最高裁の判断(プレッシー対ファーガソン裁判)が生きていたからです。
今考えるとありえないと思いますが、1954年まではアメリカではそれがまかり通っていたのです。
教育以外においても、鉄道、バスやレストランの席を白人と黒人で分けることも当時は合法でした。西部時代を描いたアメリカ映画でその場面を見た方がいるかもしれません。
権利・人権を勝ち取る
現在のアメリカはそうではありません。「分離すれども平等」が1954年に否定されて以降、少数派だった黒人の地位は以前に比べて良くなってきています。少なくとも、1954年までよりも、1954年以降の方が少数派の黒人の地位は白人に近づいていると思います。
こういった平等を黒人が勝ち取ってきた(そもそも権利・人権は初めからあったわけですから勝ち取ったという表現は不正確ではありますが、自分たちの権利・人権が司法の場で確認されたことをもってここでは「勝ち取った」と表現しております)のは、差別されるたびに少数派の方々が多数派と闘ってきたからです。
司法の場で、少数派の人権を主張し続けてきた成果でもあります。
白人も黒人も同じ公立の小学校に通う権利を黒人が有することが司法の場で確認されたわけです。
差別に負けずに自分たち黒人には白人と同じ公立小学校に通う権利がある、ということを主張してきた長年の成果です。
1896年のプレッシー対ファーガソン裁判から約60年もの長い年月がかかりました。
いかに権利・人権が黒人にあったとしてもその権利・人権が白人と同じく黒人にも認められると司法の場で判断されない限り多数派は動かなかったのです。
もっとも、司法の場で「分離すれども平等」が否定されても、多数派が素直にその判決に従ったわけではありませんでした。アメリカ南部のアーカンソー州では、州知事がリトルロックの高校に入学しようとする黒人学生を妨害するために州兵を招集しました。これに対しては当時のアイゼンハワー大統領が軍隊を派遣しその妨害を阻止したというリトルロック高校事件という事件が発生しています。
司法の場で少数派が立証責任を尽くして勝ち取った権利・人権を尊重しない社会では最後は暴力に頼らざるをえなくなります。
世界をそうしてはいけません。
権利・人権を勝ち取るまでに少数派は立証責任を果たしたわけですから、あとは多数派がそれに応えて少数派のための法制化をしていくべきです。
ひるがえって宜野湾市議会
宜野湾市議会では多様性尊重を併記した条例を否決しました。
「性的指向」等に基づく多様性を尊重することは男女共同参画社会基本法と併記することができるものではない、というのがその理由の一つとなっています(そのことに法的根拠がないことは前回の記事で指摘しております「「多様性尊重」併記条例が否決…」)。
日本では、LGBTQの権利・人権がまだ明確に法制化されていません。同性婚のみならず、シビル・ユニオン(法的に承認されたパートナーシップ関係)すら法律上認められていません。個々の市町村が個別に宣言を出す程度にとどまっています(たとえば、沖縄県那覇市では、「性の多様性を尊重する都市・なは」宣言(レインボーなは宣言)」があります)。
同性婚を認める最高裁判例もまだありません。
今、同性カップルが闘いの場を司法の場にも移して権利・人権を有することの確認を求めて争っているので近い将来最高裁の判決も出るでしょう。
まさにLGBTQの方々が立証をしている最中です。
その成果もあり、都道府県レベルでは少しずつLGBTQの方々の権利・人権を認める動きが出てきています。
多数派と自認する方々もその声に真摯に耳を傾ける必要があると思います。
少数派の方々が、多数派に理解してもらえるようにわかりやすく自分たちのことを伝える工夫をすることはたしかに必要です。しかし、少数派が一方的に立証責任を負うというのは違います。少数派の方々の意見に真摯に耳を傾け理解しようとすることが多数派には必要です。想像力が欠如した社会ではお互いがギスギスしてしまいとても生きにくい社会となります。自分が少数派に生まれてきたとしても、又は自分が少数派になったとしてもよりよく生きていける社会を創造すること(ジョン・ロールズの言う「無知のヴェール」)が議員のみならず、すべての人に求められるのではないか、と思います。
パラダイムシフト
パラダイムは変わりつつあります。
人は、物事を理解する際に、特定のパラダイム(科学分野での文脈ですが「一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの」(トーマス・クーン/中山茂訳「科学革命の構造」(みすず書房、1971年)まえがきiv))に依拠しています。
特定の「思考枠組み」で物事を認識し理解しているのです。
その「パラダイム」、「思考枠組み」が動いてきています。
自分が少数派に生まれてきたことを想定して、又は自分が少数派になったことを想定して社会制度を創造していくことが今求められています。
---終---
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