出産コントロールの是非と殺人における情状酌量の余地の判断基準の構造

2015年1月19日 0 投稿者: 行政書士 真栄里 法務事務所

約3000字(読了≒5分)

矛盾があるのか?

 出産コントロールは、動機がどうあれ許されない、と考える人が、
 数十年も要介護状態にあった妻を楽にしてあげたいと思って殺した場合に、夫に情状酌量を認めるべきだ、と考えることは矛盾するのでしょうか?

 Chikirin氏の言葉を借りますと、

自分の判断基準は「動機」なのか、それとも「行為」なのか?『Chikirinの日記 2014-11-06 あなたの判断基準は「動機」?それとも「行為」?

という、是非善悪の判断基準の構造に関する議論です。

是非善悪の判断基準の構造

 人が是非善悪を判断する仕組みは、どういう構造になっているのでしょうか?

「動機」基準の『帰責の構造

 全て「動機」を基準に是非善悪を判断するという『帰責の構造』が考えられます。
 たとえば、「寄附行為」は行為自体をみると一般的には推奨される行為だと思います。
 しかし、もしその「動機」が、貧しい人を救うためという利他動機ではなく、税金対策のためという利己動機だとした場合、この「寄付行為」の是非善悪の判断はどうなるでしょうか?
 税金対策という利己的な「動機」をどう考えるかで、この「寄付行為」の是非善悪の判断が決まってきます。

「行為」基準の『帰責の構造

 逆に、全て「行為」を基準に是非善悪を判断するという『帰責の構造』も考えられます。
 「動機」を全く考えないで、「行為」の是非善悪だけを考えるという構造です。
 先の例で言いますと、「寄付行為」が社会の富の偏在を是正して貧しい人達を救うと考えるならば「是」「善」となります。
 そうではなく、「寄付行為」は貧しい人達の自助努力の精神を削ぐ、と考えるならば、「非」「悪」となるでしょう。

 もっとも、一般的に多くの方は、この2つの『帰責の構造』を徹底はしていないと思います。

一般的な『帰責の構造

 一般的に言いますと、次のようになります。
 まずは、「行為」の是非善悪を判断します。
 その上で、その「行為」を決意した人の「動機」の是非善悪について判断します。
 つまり、

「行為」の是非善悪判断⇒「動機」の是非善悪判断

という構造です。
 これは、客観面(「行為」)から検討して、主観面(「動機」)を検討するという『帰責の構造』です。
 悪い「行為」であると判断してから、では、その「行為」を実行した人を非難することができるか?という順番での是非善悪の検討をするということです。
 ただ、

  • 「動機」を重視する人は、「動機」が悪いとその「動機」の反映である「行為」も悪いと判断しがちですから、「動機」が悪いにもかかわらず、「行為」が良いと判断するのはよほどの場合ということになります。
  • 逆に、「行為」を重視する人は、「行為」が良いと「動機」も良いと判断しがちですから、「行為」が良いにもかかわらず、「動機」が悪いと判断するのはよほどの場合ということになります。

具体例の検討

「動機」基準の帰責構造からの判断

≪出産コントロールの是非善悪≫
 良い「動機」かどうかが是非善悪を判断するポイントになります。
 もっとも、ある「動機」が「良い動機」なのかが問題とはなります。
 「動機」という人間の内面を問うのがこの帰責構造のポイントですから、宗教的な信念に左右されるだろうと思います。
 「出産」という「生命」にかかわる領域は、神の領域だ、人間がコントロールすることなんてもってのほかだ、という信念があると、どういう「動機」があれ出産をコントロールする行為は「非」「悪」となります。

≪殺人における情状酌量の余地の判断≫
 まさに、「動機」次第です。
 数十年も介護で苦しんでいた妻を楽にしてあげるためという殺人の「動機」と、頭にきたからという殺人の「動機」とで、前者の「動機」は悪くはない動機だ、というならば、殺人罪で夫に情状酌量を認めるべきだ、という判断になります。

「行為」基準の帰責構造からの判断

≪出産コントロールの是非善悪≫
 良い「行為」であるかどうかが是非善悪を判断するポイントになります。
 問題は、「良い行為」であるかの判断基準です。
 宗教は人間の内面を規律する規範ですので、「行為」という客観面の評価基準には使いにくいといえます。
 そうすると、出産をコントロールすることによる「利益」と「害悪」の衡量ということになります。

  • 「利益」>「害悪」であれば、出産をコントロールする「行為」は「是」「善」となり、
  • 「害悪」>「利益」であれば、出産をコントロールする「行為」は「非」「悪」となります。

≪殺人における情状酌量の余地の判断≫
 他人の生命を一方的に奪う殺人「行為」は悪い「行為」だ、と判断するならば、「行為」基準の帰責構造では、夫の「動機」は問わないのですから、この「行為」は「非」「悪」、ということになります。

一般的な帰責構造からの判断

 この帰責構造の下では、まず、

  1. 「行為」の是非善悪
  2. 「動機」の是非善悪

という思考順番になります。
 帰責構造が複雑になります。
≪出産コントロールの是非善悪≫
 「出産」という「生命」にかかわる領域は、神の領域だ、人間がコントロールすることなんてもってのほかだ、という信念があると出産をコントロールするという「動機」は許されないと判断しますから、基本、出産をコントロールする行為(代理母契約など)は「非」「悪」と判断します。
 逆に、出産をコントロールする行為は優秀な女性労働者を確保するために、労働者と企業の双方にとって良い「行為」だ、と判断するなら、基本、出産をコントロールする行為の「動機」は良いということになり、出産をコントロールする行為は「是」「善」と判断します。

≪殺人における情状酌量の余地の判断≫
 殺人の場合、刑法で処罰されます(刑法199条)から、殺人「行為」が「非」「悪」であることに法的に争いはありません(正当防衛などの緊急行為は除きます)。
 問題は、「動機」如何を問わず同じ刑罰に処すべきなのかどうかです。
 これは人殺しの意味をどう捉えるかにかかわってきます。
 たとえば、

  • 神が与えた生命を神以外の他者が奪うことは許されない、という信念を持つ人からすると、人殺しの「動機」はどうでも良いことになります。
    情状酌量の余地はありません。
  • 逆に、人殺しを野放しにすると社会秩序が乱され安心して生活することができないから、人殺しは「非」「悪」だと考える人からすると、人殺しの「動機」は重要になります。
    むしゃくしゃしたから近くを歩いていた人を無差別に殺害したという場合は、まさに社会秩序に正面から挑戦する「動機」ですから、厳罰に処すべきで情状酌量の余地はないと判断されるでしょう。
    しかし、長年介護で苦しんできた妻を楽にしてあげたい、という「動機」の場合は、社会秩序へ挑戦する「動機」ではないですから、情状酌量の余地があると判断されるはずです。

まとめ

 多くの人は、
 「行為」の是非善悪判断⇒「動機」の是非善悪判断を問うという、『一般的な帰責構造』に基づいています。
 ただ、その『帰責構造』下でも、「行為」基準の帰責構造に基づいているのか、それとも「動機」基準の帰責構造に基づいているのか、の見極めは重要だと思います。
 そういった意味で、Chikirin氏が

みんな考えてみてね。自分の判断基準は「動機」なのか、それとも「行為」なのか?『Chikirinの日記 2014-11-06 あなたの判断基準は「動機」?それとも「行為」?

と指摘されていることは重要だと思います。

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