異なる宗教間での対話は可能か?-多様な価値観の公平な共存-
2015年1月14日約3300字(読了≒6分)
目次
写真は
写真は、ある宗教的儀式です。
世界三大宗教は、次の3つです。
- イスラム教
- キリスト教
- ユダヤ教(五十音順)
最近、反イスラムの流れが強くなってきています。
フランス紙襲撃テロ事件(2015年1月7日)発生
<事実>
フランスの風刺週刊紙シャルリー・エブドのパリの本社に7日午前11時半(日本時間午後7時半)ごろ、覆面をかぶった複数の武装犯が押し入り、職員らを銃撃した。・・・警官2人と編集長、風刺漫画担当記者ら計12人が死亡、約20人が負傷『風刺週刊紙で銃撃、12人死亡=大統領、テロと断定-イスラム過激派の犯行か・パリ』
したとこのことです。
事件後の反応
殺害された警官の家族の発言が印象的です。
「過激派とイスラム教徒を混同してはいけません。ごちゃまぜにしないでください。モスクやユダヤ教の礼拝堂を焼いてはいけません。それは人々を攻撃するだけで、死者は戻ってこないし、遺族の悲しみを癒やすことはできないのです」(殺害された警察官アーメッド・メラベット氏の家族)殺害された警官の家族が会見「過激派とイスラム教徒を混同しないで」
殺害された警官もイスラム教徒でした(殺害された警官の家族が会見「過激派とイスラム教徒を混同しないで」)。
そのことを考慮に入れも、この発言には見るべきものがあります。
もし、混同してしまうと、宗教戦争に突入する可能性もでてきます。
宗教間での憎悪の連鎖が新たに始まってしまいます。
憎悪の連鎖から逃れるために
先人の知恵
宗教的憎悪の連鎖から逃れるための先人の知恵は近代「憲法」です。
日本の憲法もそうですが、ここでいう「憲法」は、
政治権力の組織化というよりも権力を制限して人権を保障すること(芦部信喜『憲法 第五版』高橋和之補訂(岩波書店、2011年)5頁)
を目的とする法です。単に憲法と名前があるだけでは足りません。
この意味での「憲法」は、1789年のフランス人権宣言にその起源を持ちます。
この「憲法」という装置を発明したのは先人の見事な知恵でした。
何故「憲法」が役に立つのか?
そもそも「憲法」は人権保障を目的とする法です。
たとえば、信教の自由で考えてみましょう。
世界には多くの宗教があります。その中でも、冒頭に挙げた3つの宗教が世界三大宗教と呼ばれています。
信教の自由の保障下では、どの宗教を信じるのも自由です。自分が信じる宗教を理由に国家から差別を受けたりしないことが保障されます。
国家が特定の宗教を信じるよう強制したり、特定の宗教を弾圧したりする行為は個人の信教の自由を侵害し許されません。
もし、国家がそういった行為をすれば、「憲法」成立前と同様、宗教間での憎悪が高まってしまいます。
ということは、国家は宗教に対して中立の立場を維持しなければならない、ということです。
「政教分離原則」と言われる考えです。
国家は特定の宗教と距離を取ること、が「政教分離」の要です。
「憲法」の崩壊
しかし、人は自分が信じることに基づいて行動し、発言をします。
そうしますと、国会議員も自己の宗教観に基づく発言を国会でしがちです。
それでは、結局、国会議員の多数が信じる宗教の教義内容が法律として成立する可能性が出てきます。
これでは、国家権力をどの宗教が独占するか、という争いになり、結局は宗教的対立を避けることができません。「政教分離」ではなく、「祭政一致」となり、宗教的憎悪の連鎖から逃れるための装置として発明された「憲法」が崩壊します。
どうすれば、「憲法」の崩壊を防ぐことができるのでしょうか?
「憲法」の崩壊を防ぐには?
結論から言うと、「公と私の分離」(公私二分論)です。
「公」の場に、「私」を持ち込まない、持ち込ませない、ということです。
ここで注意が必要なのは、「公」「私」は事柄で分けるのではない、ということです。
「公」か「私」かは、「理由付けで分かれる」のです(長谷部恭男・杉田敦『これが憲法だ!』(朝日新書、2006年)19頁)。
“妻は家にいるべきだ?”
たとえば、“妻は家にいるべきか?”という議題があったとします。
理由付けしだいで、「公」か「私」が決まります。
「私」の理由付け
「自分が信じている宗教では、教義上、妻は家にいるべきだ、と言っている」
この理由付けは、まさに私的な理由付けです。自分の信じる宗教の教義をそのまま理由にしても、その宗教を信じない人からは、“妻は家にいるべきだ”という結論を受け入れることは困難です。
「公」の理由付け
「妻が家にいて家事育児をすれば、夫は安心して仕事に打ち込める。その結果、日本経済が豊になり、個々の世帯の所得も増える。だから、“妻は家にいるべきだ”。」
この理由付けであれば、公的な理由付けになります。討論する価値があります。
あとは、
- 妻が家にいて家事育児をすれば、夫は安心して仕事に打ち込めるのかどうか?
- 夫が仕事に打ち込めば日本経済が豊になるのか?
- 日本経済が豊になれば個々の世帯の所得も増えるのか?
といった因果関係を検討していくことになります。
その検討結果次第で、是非が決まるでしょう。
「公私二分論」とは?
「公私二分論」では、
価値観の対立にかかわる問題・・・を政治の審議・決定の場に直接持ち込むのはよろしくない(長谷部恭男・杉田敦『これが憲法だ!』(朝日新書、2006年)16頁)
という考えです。
価値観の対立にかかわる問題を、「直接」政治の審議・決定の場に持ち込むのを禁じるということです。
つまり、生の(私的)価値観を直接に政治(公)の場に持ち込んではいけない、ということです。
「公的」な理由付けの背後に、個人の宗教観があったとしても、それは問題ないのです。
問題なのは、個人の「私」的宗教観を直接に「公」で主張することなのです。
私的価値観を「公」的理由付けに翻訳する
「公私二分論」の下では、私的価値観を「公」での討論に耐えられるように「公」の理由付けに「翻訳」する必要があるのです。
めんどくさいですし、イライラするかもしれませんが、この1ステップを踏むか踏まないかが異宗教間での対話の可否を決すると言えます。
私的価値観⇒公的理由付けへの翻訳⇒結論(主張)
この1ステップを入れるためには、我慢が必要です。しかし、多様な価値観が公平に共存するためには不可欠なステップです。
フランス紙襲撃テロ事件の打開策
この事件で、殺された警官の家族の発言を再掲します。
「過激派とイスラム教徒を混同してはいけません。ごちゃまぜにしないでください。モスクやユダヤ教の礼拝堂を焼いてはいけません。それは人々を攻撃するだけで、死者は戻ってこないし、遺族の悲しみを癒やすことはできないのです」(殺害された警察官アーメッド・メラベット氏の家族)殺害された警官の家族が会見「過激派とイスラム教徒を混同しないで」
まずは、
(1)過激派とイスラム教徒の混同を避けることが不可欠です。
その上で、
(2)宗教的価値観をぶつけるのではなく、法に則って冷静に罪を問う必要があると思います。
宗教的価値観(私的価値観)⇒「法」という「公」的理由付けへの翻訳⇒罪を問う
この道筋を冷静にたどることが、異なる宗教間での対話を可能とし、多様な価値観の公平な共存をもたらすのだと思います。
宗教的価値観を「公」的理由付けに翻訳できないならば、その理由での処罰をすることはできません。
最後に(もし、神が人間を創造したのだとすると?)
もし、神が人間を創造したのだとすると、神は人間に他の動物にはない「理性」という能力を与えた、ということになります。
神が「理性」を人間に与えたのは、より残虐な方法で人々を殺し合わせるためではなく、知恵を使って弱肉強食から脱却し、全人類が「共存」していくことを願ったからだと思います。
人類に「理性」がある以上、私的価値観を「公」的理由付けに「翻訳」することが必ずできます。
日々の生活の中で、私的価値観を「公」的理由付けに「翻訳」するよう気をつけていけば「多様な価値観の公平な共存」は可能だと思います。
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